文才を感じる文章にはどんなポイントがあるんだろう
ひたすらに文才がほしい。なんかとにかくほしい。
僕は文章を書くときに気を付けていることがある。それは漢字とひらがなの割合についてで、漢字がだいたい25%くらいになるよう意識してる。
でも毎回そんなのが上手くいくはずも無ければ、それが文才を評価する点に結び付くわけではない。正しい文法を使っているつもりだけど、文才ってなんだかんだ文法が正しければ読みやすいとは限らない。
法律に関する文章なんかは最たる例だと思う。基本的には漢字の多い文章になると思うが、シンプルに単語が難しくて、時に漢字の割合が25%程度になった部分があるとしてもすらすらは読めない。
じゃあ難しい単語だけじゃなくて、簡単な言葉を使って文章を書けばいいのかというとそうでもない。むしろ評価の高い小説家なんかは難しい単語や比喩表現を作品中にうまいこと散りばめている。
非常に難しい。あえて何の資料も見ないでどうやったら文才のある文章に見えるのか考えてみてるけど、全くそのロジックがわからない。
例えば最近、太宰治の人間失格を読んでいて、へんてこな主人公の手記という形式で書かれている本作は、句点ばっかりで一文も長いのに、異様な文才が漂っているなと感じた。やはり何だかんだ言って主語と述語の構造しかり、結局正しい文法で書いてあったなとは思うが、あんな風に一文があそこまで長いと読みづらいという逆風に耐え、輝く文才。
情景が浮かぶから?まぁ確かに情景が浮かぶように比喩表現を巧みに用いているんだけど、これが文才を感じる所以かと言われると、なんだかソウジャナイ感がある。
すっごい難しい。でも一つ間違いないのは、文章の世界観が統一されていることだとは思う。新聞記事みたいな文章と訳のわからん子育てブロガーの文章みたいなのがごっちゃ混ぜになった文章だったら、まず、良い文章だとは思わないんじゃないか。
そういう意味で言えば、人間失格の中での語り手の文章は世界観が統一されているので、読んでいて、内容を抜きにすれば文章がよくわからなくて混乱するとか、解らないとかそういう感じはしない。あくまで太宰の世界観が貫かれている。
Twitterでバズり続ける人にも文才を感じる。しかしこの辺は別に、文章の世界観の統一とかはほとんど関係ない気がする。だって140文字しかないし。
そもそもSNSでバズっているコンテンツは大抵、そのコンテンツそのものが面白かったりするから、文才が全てではないだろうけど文章のうまさみたいな要素はあるだろう。
なんなんだろうな~、そのキャッチ―な文章が書けるようになりたいんだけどなぁ。やっぱり本をたくさん読まなきゃダメなのか?やっぱりそうなのか?文豪の作品から最近の大衆文学とかまでばっちり押さえるのが一番簡単に、というかどっしりと身に付くのかな?